急に寒くなった。。
つひにコタツを出した。。
きのうは久しぶりにゆっくりとした休日を過ごした。どこかに出かけることもなく一日ウチにいた。一人なら午後からでも出かけるのだが、午前中「走ろう会」の例会に行ったPサマがお昼過ぎに帰ってきた。昼食を食べさせないわけにもいかないので、うどんを作ってあげた。
それからコタツに入ってテレビを見ていたが、突然「映画に行こう」というので、上映時間を確認したらあと20分後には始まる。支度して行っても日曜日だしすぐに入れるわけもないので、次の上映は・・?と調べたら18時からだ。
・・なのでテレビでゴルフ番組を見ていたら、だんだん大儀くなってやめた。。
夜は冷蔵庫にあるもので済ませてPサマは9時すぎには就寝。わたしも11時まえには寝た。
今朝も寒い。いよいよ初冬という感じだ。
わたしが子どもの頃 県北の田舎では、初雪が降るのはだいたい11月の10日過ぎごろと決まっていた。子どもにとって初雪はけっこう嬉しいものである。そのころは寒いのがイヤだとか思ったことはなかった。冬は寒いに決まっていた。
考えてみれば、田舎の農家で育ったわたしには、四季折々の生活の変化というのは案外楽しいものだったような気がする。その時期でしか味わえない食べ物や行事や家の中においても生活の変化があった。例えば夏には蚊帳が吊られてそのなかで両親と姉といっしょに寝た。冬になると同じ部屋に掘りゴタツが出現する。周りに布団を敷いて、掛け布団はコタツの上にふとんの裾を重ねる。
窓の外には吊るし柿がぶらさがり、まだ十分に干されてない柿を縄からもぎ取って食べた。
2階の窓から眺める景色は、収穫の終わった黒い田んぼと点在する家とまだ実の残った柿の木・・オレンジの夕暮れになり家々から立ち上る紫の煙・・山々の木は赤や黄色に彩られやがて茶色から灰色に変わっていく。
田舎の風景を思い出すのはなぜだかこの頃が多い。春の花がいっぱい咲いている時期や、夏に母の実家に行く時渡る吊り橋や、黄金色に輝く田んぼや、何もかもすっぽり雪に閉ざされた景色も思い出の中にあるにはあるが、ふと浮かぶ情景ではない。
なぜだろう・・けしてワクワクする時期ではない。たぶん色の変化が一番楽しめるからかもしれない。春の花ようにハッキリした色ではなく、夏の原色でもなく、変化していく途中みたいなグラデーションの季節・・
都会に住んでいると年がら年中同じ条件で生活ができる。それはある意味ありがたいことなのかもしれないけど、貴重な体験や自然美を愛でるといった心の余裕さえ失ってしまうことなのかもしれない。
公園の立木ひとつとっても毎日のように変化して行く葉の色を美しいと感じるか、落ち葉が汚すからないほうがいいのにと感じるかは、その人のこれまでの感性に委ねられるところだ。
しかし、もう10日か・・。そうだこうしちゃいられない・・。Pサマの給料日だった!銀行に行かなくちゃ!
つひにコタツを出した。。
きのうは久しぶりにゆっくりとした休日を過ごした。どこかに出かけることもなく一日ウチにいた。一人なら午後からでも出かけるのだが、午前中「走ろう会」の例会に行ったPサマがお昼過ぎに帰ってきた。昼食を食べさせないわけにもいかないので、うどんを作ってあげた。
それからコタツに入ってテレビを見ていたが、突然「映画に行こう」というので、上映時間を確認したらあと20分後には始まる。支度して行っても日曜日だしすぐに入れるわけもないので、次の上映は・・?と調べたら18時からだ。
・・なのでテレビでゴルフ番組を見ていたら、だんだん大儀くなってやめた。。
夜は冷蔵庫にあるもので済ませてPサマは9時すぎには就寝。わたしも11時まえには寝た。
今朝も寒い。いよいよ初冬という感じだ。
わたしが子どもの頃 県北の田舎では、初雪が降るのはだいたい11月の10日過ぎごろと決まっていた。子どもにとって初雪はけっこう嬉しいものである。そのころは寒いのがイヤだとか思ったことはなかった。冬は寒いに決まっていた。
考えてみれば、田舎の農家で育ったわたしには、四季折々の生活の変化というのは案外楽しいものだったような気がする。その時期でしか味わえない食べ物や行事や家の中においても生活の変化があった。例えば夏には蚊帳が吊られてそのなかで両親と姉といっしょに寝た。冬になると同じ部屋に掘りゴタツが出現する。周りに布団を敷いて、掛け布団はコタツの上にふとんの裾を重ねる。
窓の外には吊るし柿がぶらさがり、まだ十分に干されてない柿を縄からもぎ取って食べた。
2階の窓から眺める景色は、収穫の終わった黒い田んぼと点在する家とまだ実の残った柿の木・・オレンジの夕暮れになり家々から立ち上る紫の煙・・山々の木は赤や黄色に彩られやがて茶色から灰色に変わっていく。
田舎の風景を思い出すのはなぜだかこの頃が多い。春の花がいっぱい咲いている時期や、夏に母の実家に行く時渡る吊り橋や、黄金色に輝く田んぼや、何もかもすっぽり雪に閉ざされた景色も思い出の中にあるにはあるが、ふと浮かぶ情景ではない。
なぜだろう・・けしてワクワクする時期ではない。たぶん色の変化が一番楽しめるからかもしれない。春の花ようにハッキリした色ではなく、夏の原色でもなく、変化していく途中みたいなグラデーションの季節・・
都会に住んでいると年がら年中同じ条件で生活ができる。それはある意味ありがたいことなのかもしれないけど、貴重な体験や自然美を愛でるといった心の余裕さえ失ってしまうことなのかもしれない。
公園の立木ひとつとっても毎日のように変化して行く葉の色を美しいと感じるか、落ち葉が汚すからないほうがいいのにと感じるかは、その人のこれまでの感性に委ねられるところだ。
しかし、もう10日か・・。そうだこうしちゃいられない・・。Pサマの給料日だった!銀行に行かなくちゃ!
今朝も早くからセミの大きな鳴き声がやかましい。
「シャーシャー・・」
これはクマゼミだろう。庭の百日紅にとまって一段と大きな声で鳴く。
子供の頃はめったに見なかったクマゼミやミンミンゼミなどが、今はいたるところで鳴いている。これはやはり温暖化の影響なのだろうか・・
先日職場でセミの話題になった(笑)
わたしと同年代のひとが
「まぁ、今朝そこを歩いてきたら、セミの声がすごかったんよ~!もうジャンジャン言ってうるさいくらい鳴きよるんよ」
「そうよね~、今年はウチの庭でもセミの抜け殻をいっぺんに三つも四つも見たから、多いんじゃないかね。それもクマゼミみたいな大きいやつ」
「えー?クマゼミってどんなん?」
「羽が透明の大きいやつで、シャーシャーって鳴くんよねー」
「へぇ!よう知っとるねー」
「え?ふつうじゃろ・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしが子供の頃はセミ捕りがふつうに遊びだった。
セミが鳴き始める7月の初旬は、まずニイニイゼミが登場する。木肌にソックリな色の小さいセミだ。これは捕ってもあまり自慢にならない。子供でも手が届きそうなところにとまって鳴くので、目さえ良かったらだれでも素手で捕まえることができる。
そして夏本番になるとアブラゼミが幅を利かせてくる。アブラゼミも多いので比較的簡単に捕れる。これもあまり自慢にならない。
本格的に暑さが続く8月初旬からクマゼミ、ミンミンゼミといった大型のセミが鳴くようになる。ただしこれらのセミは数も少なく木の高いところにとまって鳴くのでめったに捕まえることはできない。捕獲用の網も必要になってくる。だけど網まで持つほどのセミ好きでもないから、網はない。
ときたま手が届きそうな場所で景気良く鳴くミンミンゼミを見つけることがあった。そーっと近づいて手を伸ばしタイミングを計る・・・透明の羽の大きなセミは力も強いからちょっと躊躇するのだ・・・
セミも殺気を感じるのか鳴きながら飛び立つタイミングを計っているようだ。サッと伸ばした指先から上手く逃げていく・・・
「ヘ~ンだ!おまえに捕まるほどドジじゃないよ~ん」と置き土産にオシッコをひっかけられる・・。
こんな具合でなかなか捕まえられないが、やっと捕まえたときにはちょっと自慢になる。
夏も終わりに近づくと、夕方には「カナカナ・・・」と鳴くヒグラシ、たった今、鳴き声が聞こえるツクツクホーシなども羽が透明な小型のセミだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
などといろいろしゃべっていたら
「まぁ、セミ博士じゃね!よう知ってからに・・」
って、誰でも知ってると思っていたわたしがヘン?
それにしても、クマゼミが大量に鳴いていることのほうがやっぱしヘンだ。
「シャーシャー・・」
これはクマゼミだろう。庭の百日紅にとまって一段と大きな声で鳴く。
子供の頃はめったに見なかったクマゼミやミンミンゼミなどが、今はいたるところで鳴いている。これはやはり温暖化の影響なのだろうか・・
先日職場でセミの話題になった(笑)
わたしと同年代のひとが
「まぁ、今朝そこを歩いてきたら、セミの声がすごかったんよ~!もうジャンジャン言ってうるさいくらい鳴きよるんよ」
「そうよね~、今年はウチの庭でもセミの抜け殻をいっぺんに三つも四つも見たから、多いんじゃないかね。それもクマゼミみたいな大きいやつ」
「えー?クマゼミってどんなん?」
「羽が透明の大きいやつで、シャーシャーって鳴くんよねー」
「へぇ!よう知っとるねー」
「え?ふつうじゃろ・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしが子供の頃はセミ捕りがふつうに遊びだった。
セミが鳴き始める7月の初旬は、まずニイニイゼミが登場する。木肌にソックリな色の小さいセミだ。これは捕ってもあまり自慢にならない。子供でも手が届きそうなところにとまって鳴くので、目さえ良かったらだれでも素手で捕まえることができる。
そして夏本番になるとアブラゼミが幅を利かせてくる。アブラゼミも多いので比較的簡単に捕れる。これもあまり自慢にならない。
本格的に暑さが続く8月初旬からクマゼミ、ミンミンゼミといった大型のセミが鳴くようになる。ただしこれらのセミは数も少なく木の高いところにとまって鳴くのでめったに捕まえることはできない。捕獲用の網も必要になってくる。だけど網まで持つほどのセミ好きでもないから、網はない。
ときたま手が届きそうな場所で景気良く鳴くミンミンゼミを見つけることがあった。そーっと近づいて手を伸ばしタイミングを計る・・・透明の羽の大きなセミは力も強いからちょっと躊躇するのだ・・・
セミも殺気を感じるのか鳴きながら飛び立つタイミングを計っているようだ。サッと伸ばした指先から上手く逃げていく・・・
「ヘ~ンだ!おまえに捕まるほどドジじゃないよ~ん」と置き土産にオシッコをひっかけられる・・。
こんな具合でなかなか捕まえられないが、やっと捕まえたときにはちょっと自慢になる。
夏も終わりに近づくと、夕方には「カナカナ・・・」と鳴くヒグラシ、たった今、鳴き声が聞こえるツクツクホーシなども羽が透明な小型のセミだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
などといろいろしゃべっていたら
「まぁ、セミ博士じゃね!よう知ってからに・・」
って、誰でも知ってると思っていたわたしがヘン?
それにしても、クマゼミが大量に鳴いていることのほうがやっぱしヘンだ。
柿ちゃんによると、五月秒らしいが・・。
ウチのパソコンお疲れ病。。バッテリー疲れ?・・ってあるの?
写真のアップとかできなくなった。USBケーブルに繋ごうとすると「キュ~ン・・」情けない音と同時に電源が切れる。そしてなかなか復活しない。
そりゃー、酷使してもう7年?無理もない。。そろそろ買い替え時かな~・・しかし出費がイタイ。わたしも凹む。。
ところで五月病のはなし。
連休明けに出勤したくないとか、せっかく就いた仕事が面白くないとか、あるかもね~・・
そこを乗り越えれば取りたててどうってこともないんだけど、そこでつまづいたらもう立ち直れなくなることもある。
わたしは高校生になって広島の学校に入ったので寮生活になった。あのころは団塊世代あとのまだ生徒の多い時代だったので寮生も多かった。
田舎から持ってきたものは布団袋ひとつと衣装缶ひとつ。机と本立ては広島で買ってもらった。
わたしが入った寮の部屋には、3年生がひとり、2年生がふたり、そしてわたしともうひとり1年生が入ったので8畳に5人の部屋だった。
寝るときなど周りにそれぞれの机をおいているので、足の踏み場もないほど布団を敷きつめなければならない。でもうっかり先輩の布団など踏もうもんなら、怒られた。
同じ広島県とはいえ、わたしのように岡山や鳥取に近いようなところから来たものや、四国に近い島から来たものやいろいろだ。広島弁もビミョーに違う。慣れないうちはとまどうことばかりだった。
緊張の4月が過ぎ、5月の連休に実家に帰った。帰れば母も心配してくれ、やっぱり実家はいいなぁと思う。なんせ8畳が自分だけのものだ。
でもあっというまに時間は過ぎていく。広島に帰る日がきた。西城の駅まで送ってもらい芸備線に乗る。急行列車で2時間半・・今のようにケータイがあるわけでもなく、友達と連絡がとれるわけでもない。
ゴットンゴットン揺れる汽車のなかでだんだん憂鬱になっていく自分がいた。
すっかり凹んで寮に帰れば、皆同じ条件で同じ思いの仲間がいた。また元気が出ていつもの生活に戻れた。自分たちの共通の話題で盛り上がったり、箸が転んでもオカシイという年頃、大笑いして三年生に睨まれた。
寮生活は規律も厳しく決めてあり、当番で料理の手伝いやお風呂も自分たちでやっていた。プライバシーがないというのもかなりストレスにはなったけど短期間とわりきればなんてことはない。今思うとやらないよりやったことのほうが良かったと思う。
いま五月病にかかってしまいそうな人は、そんなことを考える余裕もないくらい仕事や学業に自分を追い込んでみたらどうだろう。さびしいとか人恋しいというなら、同じ体験をしている仲間というのはぜったい必要な存在だ。
わたしはオン、オフの激しい仕事をしているので、スイッチの切り替えのときにいつもちょっとだけメゲる。でも乗り越えられないほどではない。
職場のなかにはその切り替えに着いていけないひとも出てくるので、数ヶ月から一年くらいで辞める人が多い。やっと仕事を覚えて少し慣れたのに、もったいないと思う。辞めたらまた一から出直しではないか。わたしもこれまでそんなに長く勤めた経験はないが、いまの仕事はできるだけ続けていきたいと思っている。
ウチのパソコンお疲れ病。。バッテリー疲れ?・・ってあるの?
写真のアップとかできなくなった。USBケーブルに繋ごうとすると「キュ~ン・・」情けない音と同時に電源が切れる。そしてなかなか復活しない。
そりゃー、酷使してもう7年?無理もない。。そろそろ買い替え時かな~・・しかし出費がイタイ。わたしも凹む。。
ところで五月病のはなし。
連休明けに出勤したくないとか、せっかく就いた仕事が面白くないとか、あるかもね~・・
そこを乗り越えれば取りたててどうってこともないんだけど、そこでつまづいたらもう立ち直れなくなることもある。
わたしは高校生になって広島の学校に入ったので寮生活になった。あのころは団塊世代あとのまだ生徒の多い時代だったので寮生も多かった。
田舎から持ってきたものは布団袋ひとつと衣装缶ひとつ。机と本立ては広島で買ってもらった。
わたしが入った寮の部屋には、3年生がひとり、2年生がふたり、そしてわたしともうひとり1年生が入ったので8畳に5人の部屋だった。
寝るときなど周りにそれぞれの机をおいているので、足の踏み場もないほど布団を敷きつめなければならない。でもうっかり先輩の布団など踏もうもんなら、怒られた。
同じ広島県とはいえ、わたしのように岡山や鳥取に近いようなところから来たものや、四国に近い島から来たものやいろいろだ。広島弁もビミョーに違う。慣れないうちはとまどうことばかりだった。
緊張の4月が過ぎ、5月の連休に実家に帰った。帰れば母も心配してくれ、やっぱり実家はいいなぁと思う。なんせ8畳が自分だけのものだ。
でもあっというまに時間は過ぎていく。広島に帰る日がきた。西城の駅まで送ってもらい芸備線に乗る。急行列車で2時間半・・今のようにケータイがあるわけでもなく、友達と連絡がとれるわけでもない。
ゴットンゴットン揺れる汽車のなかでだんだん憂鬱になっていく自分がいた。
すっかり凹んで寮に帰れば、皆同じ条件で同じ思いの仲間がいた。また元気が出ていつもの生活に戻れた。自分たちの共通の話題で盛り上がったり、箸が転んでもオカシイという年頃、大笑いして三年生に睨まれた。
寮生活は規律も厳しく決めてあり、当番で料理の手伝いやお風呂も自分たちでやっていた。プライバシーがないというのもかなりストレスにはなったけど短期間とわりきればなんてことはない。今思うとやらないよりやったことのほうが良かったと思う。
いま五月病にかかってしまいそうな人は、そんなことを考える余裕もないくらい仕事や学業に自分を追い込んでみたらどうだろう。さびしいとか人恋しいというなら、同じ体験をしている仲間というのはぜったい必要な存在だ。
わたしはオン、オフの激しい仕事をしているので、スイッチの切り替えのときにいつもちょっとだけメゲる。でも乗り越えられないほどではない。
職場のなかにはその切り替えに着いていけないひとも出てくるので、数ヶ月から一年くらいで辞める人が多い。やっと仕事を覚えて少し慣れたのに、もったいないと思う。辞めたらまた一から出直しではないか。わたしもこれまでそんなに長く勤めた経験はないが、いまの仕事はできるだけ続けていきたいと思っている。
いよいよ地元カープ戦開幕~!
ってことで、期待したにもかかわらず、始まってわずか30分足らず。ナンヤネン。。
高橋さん!新井、金本、意識しすぎちゃうん。。
なんもそんなにサービスすることあれへんやん!
・・思わず、大阪弁でグチってもーた。。
・・・・・
勝手にコラボで「お花見」の思い出でも書くか。。
遠い記憶でわたしが初めてお花見を体験したのは、たしか小学校に上がるまえだったように思う。
たぶんソレ以外でも花見をしたことはあったのかもしれないが、わずかに記憶に残っているのはその「夜桜見物」なのだ。
場所も定かではないけど、親といっしょに行くとしたら庄原の「上野公園」だったのだろう。かすかな記憶の中に大きな池があってその周りでたくさんの人がゴザを広げて騒いでいた。
サクラの花がたくさん咲いていて、提灯がぶらさがって、みんな楽しそうだった。
わたしは母と手をつないで池の周りの道を歩いていた。道の脇ではそれぞれの集団が飲んだり食べたり踊ったりしている。
そこで勢いよく聞こえてきた歌があの歌だった!
♪~やーきゅ~を~ す~るならー こーゆーぐあいに しやさんせー
アウト!セーフ!ヨヨイノヨイ!
それはそれはインパクトのある、楽しそうな歌だ!わたしはつい立ち止まって見ていた。
大の大人がまるで子供のようにジャンケンして騒いでいるのにとても驚いた!少なくともそれまでそんな大人を見たことがなかった。
ずっと見ていたかった。でも母はわたしの手を強く引いて先を急ぐ。。
歌だけが私の記憶に強くインプットされた。
それから何年もたって、テレビに「コント55号」が出てきてあの記憶の歌を歌いながらジャンケンしていた。負けたほうは洋服を一枚ずつ脱いでいく。。
あ、あのときの騒ぎはコレだった!ようやく合点がいった「野球拳」の思い出、いやいや遠い記憶の「夜桜見物」の思い出である。
ってことで、期待したにもかかわらず、始まってわずか30分足らず。ナンヤネン。。
高橋さん!新井、金本、意識しすぎちゃうん。。
なんもそんなにサービスすることあれへんやん!
・・思わず、大阪弁でグチってもーた。。
・・・・・
勝手にコラボで「お花見」の思い出でも書くか。。
遠い記憶でわたしが初めてお花見を体験したのは、たしか小学校に上がるまえだったように思う。
たぶんソレ以外でも花見をしたことはあったのかもしれないが、わずかに記憶に残っているのはその「夜桜見物」なのだ。
場所も定かではないけど、親といっしょに行くとしたら庄原の「上野公園」だったのだろう。かすかな記憶の中に大きな池があってその周りでたくさんの人がゴザを広げて騒いでいた。
サクラの花がたくさん咲いていて、提灯がぶらさがって、みんな楽しそうだった。
わたしは母と手をつないで池の周りの道を歩いていた。道の脇ではそれぞれの集団が飲んだり食べたり踊ったりしている。
そこで勢いよく聞こえてきた歌があの歌だった!
♪~やーきゅ~を~ す~るならー こーゆーぐあいに しやさんせー
アウト!セーフ!ヨヨイノヨイ!
それはそれはインパクトのある、楽しそうな歌だ!わたしはつい立ち止まって見ていた。
大の大人がまるで子供のようにジャンケンして騒いでいるのにとても驚いた!少なくともそれまでそんな大人を見たことがなかった。
ずっと見ていたかった。でも母はわたしの手を強く引いて先を急ぐ。。
歌だけが私の記憶に強くインプットされた。
それから何年もたって、テレビに「コント55号」が出てきてあの記憶の歌を歌いながらジャンケンしていた。負けたほうは洋服を一枚ずつ脱いでいく。。
あ、あのときの騒ぎはコレだった!ようやく合点がいった「野球拳」の思い出、いやいや遠い記憶の「夜桜見物」の思い出である。
・・というものを読んだ経験がある。
アレは小学校の卒業式だった。
当時、答辞は(あ、コレはダジャレです・・)先生が書いたものを渡されて、ただ読むのが役目だったような・・
一晩練習した。内容は小学校の6年間の行事を思いだす、遠足だとか運動会だとか修学旅行だとか。。こりゃぁ、泣ける内容じゃないかよ・・。
じつは本番当日風邪をこじらせていて、読む途中にセキ込んだらどうしようか・・とそればかりが心配だった。
当事者(あ、コレもダジャレ・・)のわたしは、式が予定どおり進む間ドキドキしながら、出番を待っていた。
「卒業証書授与!」・・名前を呼ばれ、一人一人が大きな声で返事をし、前に進んで一礼し、三段の階段を上り校長先生の前に進み一礼する。うやうやしく卒業証書を受け取り、折り曲げて脇に抱えまた一礼。それから右側を向き壇上を進んで端の階段からハケる。
それが終わったら、祝辞!エライ方の「卒業生のみなさん、おめでとうございます・・」から始まる祝辞を延々聞かされる。内容はあまり残ってない。。
それが終わると在校生の「送辞」がある。「お兄さん、お姉さん、ご卒業おめでとうございます・・」というやはり先生が原稿を書いたものだ。
そしてようやくわたしの出番であった。
わたしはそこまでの長い時間、セキが出ないようにと祈るのが精一杯で、壇上に飾られた陶磁器(これもダジャレ・・あ?しつこい?!スンマセン)の花瓶に生けられた豪華な花を見ることで気をまぎらわせていた。
「卒業生代表・・」名前を呼ばれて、前に進んだ。巻紙状の答辞を読み、校長先生の前に置いた。なんとかセキ込まずに終わった。感傷に浸って涙ながらの答辞にならなかったのは、すべて咳が気になっていたからにほかならない。。
「仰げば尊しわが師の恩・・」と歌を唄いながら、こらえていた涙がどっとあふれた。昭和時代の小学校卒業式である。(けして、仰げば尊し和菓子の恩・・ではナイ。。)
アレは小学校の卒業式だった。
当時、答辞は(あ、コレはダジャレです・・)先生が書いたものを渡されて、ただ読むのが役目だったような・・
一晩練習した。内容は小学校の6年間の行事を思いだす、遠足だとか運動会だとか修学旅行だとか。。こりゃぁ、泣ける内容じゃないかよ・・。
じつは本番当日風邪をこじらせていて、読む途中にセキ込んだらどうしようか・・とそればかりが心配だった。
当事者(あ、コレもダジャレ・・)のわたしは、式が予定どおり進む間ドキドキしながら、出番を待っていた。
「卒業証書授与!」・・名前を呼ばれ、一人一人が大きな声で返事をし、前に進んで一礼し、三段の階段を上り校長先生の前に進み一礼する。うやうやしく卒業証書を受け取り、折り曲げて脇に抱えまた一礼。それから右側を向き壇上を進んで端の階段からハケる。
それが終わったら、祝辞!エライ方の「卒業生のみなさん、おめでとうございます・・」から始まる祝辞を延々聞かされる。内容はあまり残ってない。。
それが終わると在校生の「送辞」がある。「お兄さん、お姉さん、ご卒業おめでとうございます・・」というやはり先生が原稿を書いたものだ。
そしてようやくわたしの出番であった。
わたしはそこまでの長い時間、セキが出ないようにと祈るのが精一杯で、壇上に飾られた陶磁器(これもダジャレ・・あ?しつこい?!スンマセン)の花瓶に生けられた豪華な花を見ることで気をまぎらわせていた。
「卒業生代表・・」名前を呼ばれて、前に進んだ。巻紙状の答辞を読み、校長先生の前に置いた。なんとかセキ込まずに終わった。感傷に浸って涙ながらの答辞にならなかったのは、すべて咳が気になっていたからにほかならない。。
「仰げば尊しわが師の恩・・」と歌を唄いながら、こらえていた涙がどっとあふれた。昭和時代の小学校卒業式である。(けして、仰げば尊し和菓子の恩・・ではナイ。。)