雑魚の云々

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昔はよかった!

年末の歌番組

今日は休日だったのでゆっくりTVも観られる。

めったに観ない歌番組、FNS歌謡祭があったので夜9時から観た。

なぜめったに観ないかというと演歌好きのPサマにとって最近の歌番組はただやかましいだけの存在らしく絶対に見ないからだ。毎年恒例のNHK紅白歌合戦なんてのも、もうカレコレ10年はまともに観ていないのが実情だ・・

Pサマが9時で寝たので、その時間から見たら、ちょうど加山雄三さんとチューブのメドレーをやっていた。

加山雄三さん、もう70代になられていると思うが、若いなぁ~・・

歌っている歌はどれもわたしが中学生のころのヒット曲だ。あのころはGS(ガソリンスタンドの略ではない)の全盛期で、毎朝7:20(セブンツーオー)とかいう番組があって、朝からGSを見て学校に行くほどGSブームだった。

そのころ1級上の幼馴染が「わたしは加山雄三が好きよ!」と言うので、え~・・、オジサンじゃないの。。と思っていた。なんせそのころはもう加山さんは29歳とかだったからだ。中学生の憧れの範ちゅうじゃないよね。。

ただし、作られる曲は好きでよくラジオで聴いていた。♪僕の行くところに~着いておいでよ~・・とか♪たったひとりの日暮れに~見上げる空のほしくず~・・なんてのはベンチャーズばりのノリがいいので大好きだった。

けれどそれよりもわたしがホントに好きなのは、♪風に震える~緑の草原~・・で始まる「旅人よ」とかなのだが。。

その加山さん、今日見たら驚くことに全然歳をとられないあのころあれだけオジサンだったのに気付いたらすっかりわたしのほうが加山さんに近づいてしまった

あのころの年末といえば、テレビは歌謡番組ばかりだったような気がする。好んで観ていたってこともあるだろうけど、特に『レコード大賞』とか『紅白歌合戦』なんてのは絶対に見逃せないもので、いつもなら9時10時で寝るところをその日だけは遅くまで起きてテレビを観ることも許されて、家族そろってコタツに入ってテレビを見たものだ。みんなが同じ番組を観ることにナンの疑問も持たずに・・。むしろそれを見ないってことは、話題に遅れることだったのかもしれない。

懐かしい映像もたくさん出てきて、その時代が歌と共に思い出される・・。

もちろん今日再放送のあった『龍馬伝』の感動の最終回も観たのだが、その主演の福山雅治さんもFNSに出演されていたので、龍馬とはまた違った魅力を再認識させられた。

そしてなんといっても、平井堅さんX久保田利伸さんX押尾コータローさんの「Missing」コラボはラッキーだった

歌というのは、どうしてもその時代のことを思い出すツールになるようだ。歌そのものは今でも全然古くないのだけど、想い出はどんどんセピア色になっていく今日このごろ・・(笑)

年末の歌番組を堪能するのはたぶんこれが今年最後になるかなぁ・・
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昔はよかった!

偶然・・・

きのうのことだった。

仕事をしている売り場で、中年女性のふたりづれが棚の上の商品を見ながら話しているので、近づいて・・

「いらっしゃいませ!」と声をかけた。

振り向いた女性が「アレを新築のお祝いに贈りたいんだけど、どうですかね~?」と言われるので、

「えぇ、とてもキレイでしょ!新築祝いでしたらきっと喜ばれますよ・・!」と言いながら、アレ?このひと、たしか同級生??

「アレだけで置いといても、い~ですよね・・?」

・・・・・・(え~っと。。このひと名前は・・・思い出せん。。)

ちょっとビミョーな間があったので、不審げに振り向いた顔に!思い出した

「○○さんですか?」

「はい、そうですが~・・、あ!○○ちゃん!」

なんと高校の時の同級生だった!

・・・といっても同じクラスになったことはナイ。部活がいっしょだったわけでもナイ。

何がいっしょの同級生かというと、寮生活がいっしょだったのだ。

わたしは高校進学と同時に、実家からは遠く離れた広島市内の学校に入ったので、寮生活になった。同じように郡部や島しょ部の自宅から通えない生徒がたくさんほかにもいた。

当時いっしょに入寮した一年生はたしか20人くらいはいたと記憶している。

寮とはいっても今のように立派なビルなどではなく、木造の、廊下をはさんで左右に8畳くらいの部屋が並んでいるだけの寮だった。そこに一部屋に5人ぐらい(1年がふたり、2年がふたり、3年がひとり・・)での生活だ。

部屋の壁面にはそれぞれ文机を並べているので、寝る時など部屋中に布団を敷きつめるような状態だった。それでも上級生の布団を踏んだりしたら怒られるので、遠慮しながら抜き足差し足して歩いた。

消灯時間、起床時間、掃除時間、食事当番、お風呂当番、そういった決まりのなかで15才から18才のいわゆる「箸が転がっても可笑しい」年齢の女の子たちが生活していた。上級生下級生のケジメはついていたので、それほど大きな問題はおきなかった。たった1~2年しか違わない先輩がけっこう大人に見えていたのが不思議だ。

当時テレビは食堂にあったが、ほとんど観た記憶はない。みんなラジオ族だった。特に試験の期間中は消灯がなくなる。なので夜中に起きていても問題はない。。それをいいことに、試験勉強するでもなく「オールナイトニッポン」など深夜放送を聴くのがメチャ楽しみだった。当時流行っていた「マルタ島の砂」とか「ノックは三回」「ライオンは寝ている」それに「ヴィーナス」「トレイン」「霧の中のふたり」「悲しき鉄道員」などのビートの効いた音楽を聴きながらリスナーの投稿に笑い転げたりしていた。

3年生になってどうしても下宿生活ってのを体験したくて、友達とふたりで部屋を借り寮を出た。それからは自由の身になったので、これもいわゆるおさだまりで生活は乱れた。就職は親が喜ぶだろう金融機関に決まったから一応は落ち着いた。冬になるころいっしょに暮らしていたルームメイトに恋人が出来て、時々外泊するようになった。わたしも落ち着かないので寮の友人に相談に行き、ナイショでそのまま寮に泊めてもらったことがある。。もう時効だから告白してもいいだろう(笑)

卒業して数年経ったころ寮生だけで同窓会をしたことが2回くらいある。だけどソレ以来だから、もう20年以上は会っていない。それが偶然・・・

「また同窓会しようよ!」ってハナシになった。連絡がつかないひとも多いと思うけど、懐かしい顔が集まったらいいね~・・と話しながら、配送伝票に記入していく友人・・

「まあ、目が見えないから、困るよね~・・」「わたしも同じよ~・・」

ひとは同じようにトシを重ねていくものだ。。

.04

昔はよかった!

ひなまつり・・・

きのうはひなまつりだったが、我が家のお雛様はことしも日の目をみることはなかった。。かわいそうに・・。
昨夜はカタチだけ、ちらし寿司を作って「ひなまつり」の行事とした。

確か前回飾ったのはカレコレ3年前・・?

・・というのも、わたしの売り場ではお正月用品を撤収すると同時にお雛様が並ぶ。1月の中旬だ!それからきのうまで、お雛様を扱っているので、わざわざ自宅に飾らなくてもたくさんのお雛様を眺めて暮らせる(笑)ま、そういう問題でもないんだけどね・・。。

わたしが子供の頃はたしか旧暦の『ひなまつり』を祝っていた気がする。だから今頃ようやく雛人形をひな壇に並べて眺めている頃かなぁ・・

父が2階の物置にあるひな壇を1階の奥の間に下ろして組み立てる。ウチのお雛様は、チャンとした形のものではなく、いろいろな人形が並んだ。代々、子供が生まれるとその子のために親族から人形が贈られていたようで、男の子でも『三次人形』を贈る習慣があったようだ。なので、古くはじいちゃんばあちゃんのものやもちろん父の代のものや、いろいろバラバラの人形が並んだ。

まぁ、普段は蔵の中に入っている人形なので、その時だけは晴れやかに賑やかにひな壇に並ぶ。中には古いものは、鼻をネズミに齧られてしまったのや、髪の毛が抜けて哀れになったのもいたが、それらも一応はひな壇に並んだ。

姉とわたしの人形は、倒すと眠り、起こすと目をパッチリ開ける陶製のフランス人形・・。金色の紙箱に入っていて、その時期だけフタをはずして立てて飾る。一年のほとんどを眠って過ごした人形は、この時ばかり、わたしたちの手によって、毎日目をあけたり閉じたりさせられた。

姉のは帽子も洋服も白いサテン系のものをまとっており、スカートも長くて大人っぽい。わたしのは、帽子も洋服も濃い目のピンク中心でスカートもひざ丈でカワイイ系。やはり比べると姉の人形がうらやましかった。人の持ってるのがいいな~!っていうのはいつの時代も子供心だね(笑)

こうして母といっしょに「これは誰それの人形・・」だとか言いながら、えびす大黒やら翁人形やら色とりどりに並べ終えて、ひな壇は完成した!

当時はお供えする、『雛あられ』『ほとぎ』なども全部手作りだ。花はないのでネコヤナギの枝を小川の土手から切ってきて飾る。忘れていたが、きのうの満点ママで総領町の『ひなまつり』を見て思い出した。そうそう、『ほとぎ』は必ず各家庭で作っていたものだ。

旧暦の『ひなまつり』のころ、ようやく県北の田舎に春が訪れる。

.07

昔はよかった!

旧友!

実は先月の終わりごろ、故郷で中学校のクラス会があったのだ。

行きたい気持ちもあったのだが、地祭りもあって帰郷したあとだし、次の日が宮島クロカンで早朝から動かなきゃいけなかったりで、今回はパスした。。

そんな中、たまたま電話連絡が着いたというか、間違って連絡してしまったというか、中学時代の友人と話をした。

彼女もそのクラス会には出られないというのだが、他の情報がけっこう詳しい・・。ダレソレがン十年ぶりに来るとか、ダレソレが東京から帰ってくるとか・・。

わたしはあんまし自分以外のことに興味がない人間なので、こういった旧友からの情報がありがたいのだ!!

時々ケンタくんのライブにいっしょに行く友人のケータイが変わったらしく、つながらない・・って他の友人から連絡が入っていたのだが、コチラも用事がない時は連絡しないのでそのままだった。。たぶん、半年くらい音沙汰ナシ。。けどソコも連絡着いて、クラス会に参加した感想を教えてくれた。

旧友ってのはそんな付き合いだ。歴史は小学校や中学校のころからだから、40数年前・・なのだ。で、いまも連絡しあうってのが、1年に1回あるかないか?みたいな人でも、電話で話したら、あの中学のころに戻って話してるんだよね~~~~

今日も2人の旧友に電話して、はなしがメッサ盛り上がり~・・30分以上は話してたし~。

枕ことばもナシの電話で、ン年に1回あるかなしかで、コレだけ話が通じる友人ってホンマありがたいよね~・・

「今度のクラス会は還暦かね~☆」って言いながら電話を切ったが、でも~。。お互いに還暦って響きは、ヤダネ~。。

出来たら数年後、宮島あたりで還暦祝いでなく『60周年、人生折り返し地点』のクラス会をやりたいものですね!!!





.20

昔はよかった!

夏の思い出・・・

今日はもう20日か・・。

というと、夏休みは残すとこあと10日あまり。。宿題が気になるころですね~・・

わたしが小学生のとき、毎年8月の初めころから母の実家に行き、お盆に母が迎えに来るまで2週間くらいそこでイトコたちと過ごしていた。

母の実家は距離にして10Kmくらい離れている。今でこそどこのウチにも車があるから、10Kmくらいはわけない距離だが、そのころはまだ公共交通機関しかないころだ。幼児の頃は母と一緒にバスや汽車を乗り継いで行った記憶がかすかにあるが、小学校低学年のころからは歩いて行ったものだ。

今はウォーキングのくせがついているので10Km歩こうと思えば歩ける。しかし子どもの足で10Kmはけっこうな距離である。でも毎年その道を歩いて行くのがイヤだと思ったことはない。

田舎道のちょうど中間地点に一休みできるお店があった。母は必ずそこに寄って飲み物やお菓子を買ってくれた。ビー玉のコロコロしたラムネは苦手なので、わたしは瓶のミルクセーキを飲んだ。クジのついたフーセンガムは「当たり」が出るのが楽しみだった。当時は「当たり」の数も多かったような気がする。

一休みしたらまたカラカラに乾いた土ぼこりの道を歩いた。しばらく進むと車道を離れて歩ける近道に入る。車が通らない道なので草も生えている。土ぼこりの道よりよほど涼しいし空気もきれいだ。峠を越えて歩く道だけど、そのあたりにも家がところどころにあって、よくこんなさみしいところに住んでるな~と思いながら歩いた。今思えば、うちの辺りといくらも違わないのだが・・(笑)

峠から少し下ったところに吊り橋があった。元々はそれこそ「かずら橋」のような怖い橋だったように思う。ただしわたしの記憶にあるのは新しく架けられた橋なのだ。吊り橋なので多少ゆれるから、怖くないと言えばうそになるが、しっかりしたワイヤーで繋がれた丈夫な橋である。だからそれほど恐怖感はない。いよいよそれを渡れば、母の実家のある地区に入る。地元の中学生などはそのつり橋の下あたりまで泳ぎにきて遊んでいた。

そこを渡って川沿いに緩やかな坂を上って行けば、祖父や祖母や賑やかなイトコたちの待つ母の郷に着くのだ。

そこでわたしだけ約2週間、イトコたちと毎日遊んで過ごした。本家には5人のイトコがいた。少し離れた分家にも5人のイトコがいた。たぶん一人くらい増えたところで、叔父や叔母は気にすることもなかったのだと思う(笑)年上のイトコたちはそれぞれに家の手伝いも決まっていて、午前中は主に手伝いをし、午後からは泳ぎに行ったりして遊んだ。わたしは宿題を持って行ってはいたが、まずすることはなかった。

そこも農家だから夏の間、男は草刈りやら山仕事やら、外の仕事が忙しい。女は畑仕事と冬に使う布団の仕立てなども自分たちでやっていた。開け放した続きの8畳間に、洗濯して固く糊付けした表生地を裏返して敷き、その上に打ち直しした綿をのせる。綿をまんべんなく厚みが変わらないように載せ、4つ角を生地と綿を固定するように布団針と太目の木綿糸で留める。それが出来たら、四方から中心に向けてくるくると丸めて寄せる。これがけっこう大ゴトなのだ。丸めて抑えておかないと、ふかふかの綿はすぐに戻ってしまう。わたしは丸めたところが戻らないように、抑えて手伝った。

全部が丸まったら、表生地の中央の開いている口に綿を通すようにしてひっくり返す。。祖母が「赤ちゃんが生まれるよ~!」と言いながらひっくり返すと鮮やかな模様の布団が現れる!糸で留めた四つ角を引っ張り出して、布団らしくなる。中央の口を縫って収め、綿と生地がずれないようにところどころを糸で固定して留める。これで一丁出来上がり!!綿ぼこりはするし、汗はかくし、手間暇かかって家族が多いとたいへんだぁ。。

そういえば、畳を上げての大掃除も夏の行事だった。庭にムシロを敷いて、畳を一枚づつ担ぎ出し、2枚を立てかけて並べ、しばらく風を通す。その間、板間になった部屋はきれいに拭き掃除して子供たちが走り回る。。干してある畳のトンネルをくぐりたかったけど、それはさすがに許されなかった。。

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今はどこの家にも布団はじゃまになるほどあるし、自宅で仕立てなんかするひともない。困るのは処分に困るくらいのことだ。

大掃除などせいぜい窓と網戸と換気扇くらいのもんだが、それさえも手抜き。。

時代が変われば、人も習慣も変わる。どっちがいいと言われても困るけど懐かしい思い出である。

不思議なことだが、渡ったことも覚えていない『かずらの吊り橋』がよく夢に出てきていた。最近こそみなくなったけれど、かなり大人になってからもだ。。幼心に恐怖として残ったのか・・?それとも見たことも渡ったこともないのに過去の記憶、デジャブ・・?

ま、大人になってからよかった!と思えることのひとつに、夏休みの宿題をギリギリになって片付けなくてよくなった、というのがあることは間違いない。。

プロフィール

じゃこ

  • Author:じゃこ
  • 日本の良さってなんだろう!
    山を歩く・・
    素材にこだわる・・
    侘び寂びのこころ・・
    そして、癒しを追っかけしています!







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