なにかと新しい出会いの多い時期である。
ただしわたしは今月仕事もお休みなので、雨降りにかこつけて隠居生活をしているわけだが・・。
先日、立ち寄った○ックオフで『宮本 輝』の『命の器』というエッセイ集を手にした。『宮本 輝』は好きな作家のひとりで、もう20~30年も前からいろいろ小説を読んできた。だけど小説は読んでも彼のエッセイというのは読んだことがない。パラパラと立ち読みしたら、これはかれこれ30年前に書かれたエッセイ集なのだ。・・ということは、わたしが興味を持って読み始めたころ・・ということになる。
わたしが彼の小説に興味を持ったのは『優駿』という映画が話題になったころだ。たぶん映画を観て原作を読む気になったのだと思う。それから話題作の『泥の河』('77太宰治賞)『蛍川』('78芥川賞)など川の3部作を読み、次々に発表される小説を読んだのだった。
当時はもちろん○ックオフなどないころで、しかも文庫ではなくハードカバーにこだわっていた。なので上下巻揃えて買うとなると結構な金額になるが、当時はそれが書棚に並ぶことが嬉しかったのかもしれない。
最近は本というのは新刊を買うことはあまりない。しかし本屋にはよく行く。暇ならこれほど時間を潰せるところはない(笑)多種多様な本の中から本当に自分が読みたい本に出会うのはかなりむずかしい。。しかも買ってきたが読まなかったでは悲しいものがあるので、新刊を買うことには慎重なのだ。
で、もっぱら職場の回し読みということになるのだが、中には途中で投げ出したくなるのもある。なのでそういうのはもっぱら睡眠導入剤にしかなっていない。(笑)
それで○ックオフで手に取った宮本 輝氏の『命の器』。なつかしいのでゆっくり読んでみようと思って買ってきた。
そのなかにこういった一節がある。
運の悪いひとは、運の悪いひとと出会ってつながり合っていく。・・・・・・・・中略・・・・・・・・
知らぬ間に、そのようになってしまうのである。抗っても抗っても、自分という人間の核を成すものを共有している人間としか結びついていかない。その恐さ、その不思議さ。私は最近、やっとこの人間社会に存在する数ある法則の中のひとつに気づいた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。でなければどうして、「出会い」が、ひとりの人間の転機と成り得よう。私の言うことが嘘だと思う人は、自分という人間を徹底的に分析し、自分の妻を、あるいは自分の友人を、徹底的に分析してみるといい。「出会い」が断じて偶然ではなかったことに気づくだろう。
う~ん。確かに・・。
出会いは日常的にあるけれど、相手のなかに自分と同じなにかを見つけたり感じたりするからお互いに興味を持つものだ。それをフィーリングなどという表現にしたりするが、「出会い」というのはそういったことを双方が感じ取らなければお互いに影響し合える関係にはならない。
この一節が正しいかどうかはよく分からないが、たしかにそれは自分自身が選んで進んでいる道なのだと思う。
『命の器』を書かれた頃は宮本 輝氏がまだ30代後半のころ、今現在還暦も過ぎた年齢になられてからの一節はもっと確信のあるものになったのだろうか・・お尋ねしてみたいものだ。
ただしわたしは今月仕事もお休みなので、雨降りにかこつけて隠居生活をしているわけだが・・。
先日、立ち寄った○ックオフで『宮本 輝』の『命の器』というエッセイ集を手にした。『宮本 輝』は好きな作家のひとりで、もう20~30年も前からいろいろ小説を読んできた。だけど小説は読んでも彼のエッセイというのは読んだことがない。パラパラと立ち読みしたら、これはかれこれ30年前に書かれたエッセイ集なのだ。・・ということは、わたしが興味を持って読み始めたころ・・ということになる。
わたしが彼の小説に興味を持ったのは『優駿』という映画が話題になったころだ。たぶん映画を観て原作を読む気になったのだと思う。それから話題作の『泥の河』('77太宰治賞)『蛍川』('78芥川賞)など川の3部作を読み、次々に発表される小説を読んだのだった。
当時はもちろん○ックオフなどないころで、しかも文庫ではなくハードカバーにこだわっていた。なので上下巻揃えて買うとなると結構な金額になるが、当時はそれが書棚に並ぶことが嬉しかったのかもしれない。
最近は本というのは新刊を買うことはあまりない。しかし本屋にはよく行く。暇ならこれほど時間を潰せるところはない(笑)多種多様な本の中から本当に自分が読みたい本に出会うのはかなりむずかしい。。しかも買ってきたが読まなかったでは悲しいものがあるので、新刊を買うことには慎重なのだ。
で、もっぱら職場の回し読みということになるのだが、中には途中で投げ出したくなるのもある。なのでそういうのはもっぱら睡眠導入剤にしかなっていない。(笑)
それで○ックオフで手に取った宮本 輝氏の『命の器』。なつかしいのでゆっくり読んでみようと思って買ってきた。
そのなかにこういった一節がある。
運の悪いひとは、運の悪いひとと出会ってつながり合っていく。・・・・・・・・中略・・・・・・・・
知らぬ間に、そのようになってしまうのである。抗っても抗っても、自分という人間の核を成すものを共有している人間としか結びついていかない。その恐さ、その不思議さ。私は最近、やっとこの人間社会に存在する数ある法則の中のひとつに気づいた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。でなければどうして、「出会い」が、ひとりの人間の転機と成り得よう。私の言うことが嘘だと思う人は、自分という人間を徹底的に分析し、自分の妻を、あるいは自分の友人を、徹底的に分析してみるといい。「出会い」が断じて偶然ではなかったことに気づくだろう。
う~ん。確かに・・。
出会いは日常的にあるけれど、相手のなかに自分と同じなにかを見つけたり感じたりするからお互いに興味を持つものだ。それをフィーリングなどという表現にしたりするが、「出会い」というのはそういったことを双方が感じ取らなければお互いに影響し合える関係にはならない。
この一節が正しいかどうかはよく分からないが、たしかにそれは自分自身が選んで進んでいる道なのだと思う。
『命の器』を書かれた頃は宮本 輝氏がまだ30代後半のころ、今現在還暦も過ぎた年齢になられてからの一節はもっと確信のあるものになったのだろうか・・お尋ねしてみたいものだ。
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